※このページはこれからご紹介していく参考となるものであり、今回取上げたものは同窓生による作品のごく一部です。
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同窓生の作品―彫刻

「鼓」(テラコッタ)、2010年
「うさぎ面」(桐材)2008年

渡辺雄司(45A)

彫刻家。江戸彫工 嶋村12代にあたる吉田芳夫に師事。
1949年 東京都に生まれる
1970年 和光大学人文学部芸術学科
1976年 東京都足立区、山形県白鷹町などで石彫制作(79年まで)
1984年 恩師である彫刻家吉田芳夫、先代吉田芳明、先々代嶋村俊明十代はじめ江戸期嶋村家の彫物の発掘・調査
1993年 昭和会展 日動画廊
1999年 山本鼎版画大賞展 上田市
2004年 彫刻個展(相島芸術文化村)我孫子市
2008年 文化庁芸術祭参加作品 楽劇「Konkichi」面制作

「師 吉田芳夫」   渡辺雄司(45A)
和光大学で長く教授を務められた彫刻家吉田芳夫先生は、新制作協会創立会員、昭和初期のモダンボーイであり、「江戸彫工元祖」の家柄でその12代目でした。江戸時代、関東一円の社寺装飾彫刻 龍・獅子等を施す彫工達の中心的存在である嶋村家です。

元祖嶋村俊元は、浅草寺屋根上の力士、及び五重塔その他諸々の彫物を成したそうです。慶安2年徳川家光寄進の浅草神社は、数々の災害に遭いながらも現存します。

嶋村代〃の当主は名人揃い、個性的で品格に満ち、私から見れば現代美術よりはるかにコンテンポラリーアートです。江戸時代、関東全域各流派の彫物はどうであるか。というと庶民のエネルギーは膨大であり、名人は限られます。俊元は公儀彫物師として活躍し、2代嶋村円鉄は「無関堂円鉄 一生断持斎 俗名藤八」などと名乗り名人ながら公儀から遠ざかりました。

が一方で徳川幕府中枢と関係を持ちます。5代徳川綱吉より引き継がれた8代吉宗将軍の養女竹姫は、目を患い円鉄は竹姫のために眼病平癒祈願、彫工ながら薬師如来を造像し、やがて竹姫は全快します。
竹姫は後に祐天寺、安房清澄寺に寄進し両寺とも荘厳な嶋村の彫物が遺されてます。祐天寺には歌舞伎の『かさね』塚があります。

元禄期、円鉄が成田山新勝寺に彫物を施して以来、新勝寺、市川團十郎、嶋村の三者は後々まで深く繋がります。文政期、市川團十郎7代目が新勝寺に1千両で寄進した額堂は、嶋村の彫物抜きに考えられません。市川團十郎7代目は将軍養女竹姫同様目を患い、目に良い井戸―井筒のある足立区関原の大聖寺を訪れ効果がありました。その礼として息子團十郎8代目は大聖寺に木製提灯など寄進し、同寺に文覚上人と不動明王を彫った8代嶋村俊正の額があります。

足立区周辺で更に、嶋村の重要な流れを示す彫物を見つけ、身近な所で彫工の歴史を辿ると教科書には無い世界が拡がります。名人の彫物に対峙するといろいろな思いがよぎります。

吉田先生に学んだ20年間は私の宝物です。師の教えは今思うと嶋村流そのものです。大学を自主卒業後、自作が完成する度に先生宅に伺い教えを受け、アトリエから部屋を代え食事処に移ってからは、飲んだり食ったりが当たり前、ついぞ授業料など考えもしない能天気ぶりでした。私に限らず彫刻を学ぶ学生に師は真剣に対応しました。

吉田先生の先代は吉田芳明、10代嶋村俊明門人で娘婿、はじめ嶋村芳明を名乗り木彫、象牙彫りに独特な世界を刻み込みました。

和光大学は、吉田先生が伝えた彫刻のありようをそのまま伝えれば、世界に類例を見ない彫刻工房でした。

しかし私共の研究や嶋村の歴史は、顧みられず残念です。

21世紀型の祭屋台〈山車〉は、シンプルな彫刻で飾り、東京丸の内だろうと『限界集落』だろうと各地へ出張り、老若男女歌舞音曲で楽しめたらと思います。


8代嶋村俊正の特徴を示す彫物、天保頃
「演技者U(白道)」(ブロンズ)高83cm、1976年

吉田芳夫
彫刻家。祖父島村俊明、父吉田芳明(本名芳造)、伯父吉田白嶺と代々彫刻家を家業とする。

1912年 東京都に生まれる
1930年 東京美術学校彫刻科予科に入学
1931年 東京美術学校彫刻科本科に進級
1936年 東京美術学校彫刻科塑像部を卒業
1966年 和光大学人文学部教授に就任
1989年 歿