※このページはこれからご紹介していく参考となるものであり、今回取上げたものは同窓生による作品のごく一部です。
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同窓生の作品―彫刻
「鼓」(テラコッタ)、2010年 「うさぎ面」(桐材)2008年 | 渡辺雄司(45A)彫刻家。江戸彫工 嶋村12代にあたる吉田芳夫に師事。 |
「師 吉田芳夫」 渡辺雄司(45A)
和光大学で長く教授を務められた彫刻家吉田芳夫先生は、新制作協会創立会員、昭和初期のモダンボーイであり、「江戸彫工元祖」の家柄でその12代目でした。江戸時代、関東一円の社寺装飾彫刻 龍・獅子等を施す彫工達の中心的存在である嶋村家です。
元祖嶋村俊元は、浅草寺屋根上の力士、及び五重塔その他諸々の彫物を成したそうです。慶安2年徳川家光寄進の浅草神社は、数々の災害に遭いながらも現存します。
嶋村代〃の当主は名人揃い、個性的で品格に満ち、私から見れば現代美術よりはるかにコンテンポラリーアートです。江戸時代、関東全域各流派の彫物はどうであるか。というと庶民のエネルギーは膨大であり、名人は限られます。俊元は公儀彫物師として活躍し、2代嶋村円鉄は「無関堂円鉄 一生断持斎 俗名藤八」などと名乗り名人ながら公儀から遠ざかりました。
が一方で徳川幕府中枢と関係を持ちます。5代徳川綱吉より引き継がれた8代吉宗将軍の養女竹姫は、目を患い円鉄は竹姫のために眼病平癒祈願、彫工ながら薬師如来を造像し、やがて竹姫は全快します。
竹姫は後に祐天寺、安房清澄寺に寄進し両寺とも荘厳な嶋村の彫物が遺されてます。祐天寺には歌舞伎の『かさね』塚があります。
元禄期、円鉄が成田山新勝寺に彫物を施して以来、新勝寺、市川團十郎、嶋村の三者は後々まで深く繋がります。文政期、市川團十郎7代目が新勝寺に1千両で寄進した額堂は、嶋村の彫物抜きに考えられません。市川團十郎7代目は将軍養女竹姫同様目を患い、目に良い井戸―井筒のある足立区関原の大聖寺を訪れ効果がありました。その礼として息子團十郎8代目は大聖寺に木製提灯など寄進し、同寺に文覚上人と不動明王を彫った8代嶋村俊正の額があります。
足立区周辺で更に、嶋村の重要な流れを示す彫物を見つけ、身近な所で彫工の歴史を辿ると教科書には無い世界が拡がります。名人の彫物に対峙するといろいろな思いがよぎります。
吉田先生に学んだ20年間は私の宝物です。師の教えは今思うと嶋村流そのものです。大学を自主卒業後、自作が完成する度に先生宅に伺い教えを受け、アトリエから部屋を代え食事処に移ってからは、飲んだり食ったりが当たり前、ついぞ授業料など考えもしない能天気ぶりでした。私に限らず彫刻を学ぶ学生に師は真剣に対応しました。
吉田先生の先代は吉田芳明、10代嶋村俊明門人で娘婿、はじめ嶋村芳明を名乗り木彫、象牙彫りに独特な世界を刻み込みました。
和光大学は、吉田先生が伝えた彫刻のありようをそのまま伝えれば、世界に類例を見ない彫刻工房でした。
しかし私共の研究や嶋村の歴史は、顧みられず残念です。
21世紀型の祭屋台〈山車〉は、シンプルな彫刻で飾り、東京丸の内だろうと『限界集落』だろうと各地へ出張り、老若男女歌舞音曲で楽しめたらと思います。
8代嶋村俊正の特徴を示す彫物、天保頃 「演技者U(白道)」(ブロンズ)高83cm、1976年 | 吉田芳夫 |